【キャンプとカブで遊びたい人】マイキーの自己紹介

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コラム
サバゲー参加中のマイキー(当時40才くらい)

2018年にライブドアブログをなんとなく開始して、はじめは夢中で記事を更新してたけど、途中から専業のせどらーになってブログのことは放置。

その後2021年に友人がブログをはじめたのに自分も感化されて、ココナラに依頼してワードプレスにブログを引っ越してみたものの、けっきょくやったりやらなかったりして、また何度目かのブログ再開をして気づけば2024年に100記事に到達していた。

今回は、怠惰な自分がマイペースながらも雑記ブログ100記事というひとつの区切りを迎えた記念に、誰かがこのまとまりのないブログに興味を持ってくれたときのため自己紹介をしておきたい。

キャンプとカブで遊びたい人のプロフィール

ブログタイトルとペンネーム

まずブログタイトルは、分かりやすいものがいいな、と思ってたから当時から本格的に趣味と言えるレベルになってきたキャンプ、日常の足として30才くらいからの相方だったホンダのスーパーカブ90をそのまま取り入れて合体させてみた。

正直ブログのタイトルはなんでも良かったんだけど、「〇〇ブログ」みたいな感じだとあまりにも芸がない気がしてこうなった。

ペンネームの「マイキー」はなんとなく日本人っぽくないニックネームがいいな、と考えてたら若いころワーキングホリデーで行ったオーストラリアの農園の次男がふと頭に浮かんで、ワードプレスに引っ越したタイミングから使っている。

マイキー
マイキー

オーストラリアのマイキーは都会の生活が合わなくて

実家の農園を手伝ってるようなタイプでぼくと似てたんだよね

港区生まれの埼玉県民

ぼくは1974年、昭和49年生まれの「団塊ジュニア世代」とかいうド昭和のおじさんで、この記事を書いている現在は50才。

父親が警視庁管内の警察官だった関係で、好景気真っ最中の東京都港区の警察官家族向け公営住宅で生まれ育ったんだけど、幼稚園の卒園を待たず父親がマイホーム戸建てを購入したタイミングで埼玉県に引っ越してきた。

引っ越したのが10月とかの秋頃で、引っ越し先の幼稚園に移るにしても半年くらいの通園のために制服とか揃えるのは親も経済的に大変だったからか、幼稚園の転校はせず春の小学校に上がる時期まで3つ下の弟と毎日遊んでいた。

ある程度大きくなってから「あれ、おれって幼稚園中退なんじゃない?」と思ったけど、あれはあれで今でもネタになってるからいい経験だった。

その後もいちおう地元の小中高校、地方の国立大学を卒業していて、途中でワーキングホリデーで1年間オーストラリアでほぼホリデーを過ごして非正規だったり正規だったりの会社員として働いていたりもする。

50年生きてきているけど、幼稚園に上がる前、オーストラリア、結婚する前を除くともう40年以上は埼玉県民だから生粋の埼玉人だと言える。

マイキーの人格形成

ひょうきん期

幼少期のぼくはかなり明るく活発な少年だった。授業中にふざけたり、おちゃらけてみたりして、学校の先生からしょっちゅう怒られていた。うちでも姉と弟をからかったりして、ときどき面白いことを言ってみんなを笑わせてみたりすることが楽しくて仕方がなかった。

小学校3年生のとき、巨人ファンの親の影響もあって毎晩見ていたプロ野球がきっかけで、地域の少年野球チームに入った。

その少年野球チームっていうのが、うちの地区ではほぼ負けなしで県大会の常連という、とんでもない強豪チーム。毎日放課後はいったん自宅に帰って、練習着に着替えて道具を持ってグラウンドに行って、そこから暗くなるまで練習。夏も冬も、盆も正月も関係なし。

週末は地域で練習試合、遠征して試合、試合のあとも練習、試合がなければ当然朝から晩まで練習。毎日毎日死ぬほど野球。そりゃあ強いよね。

そこでバットの握り方からキャッチボールの仕方、そもそもの野球ルールを徹底的に教え込まれて、小学校5年生のはじめには7番レフトのレギュラーになった。

逃げることをおぼえた

そこまで頑張ってきた少年野球なのに、ぼくは6年生に上がる直前でチームをやめている。

理由はいくつかあるんだけど、当時1個上の6年生最後の大会で関東大会に進むことになったタイミング。チームの監督が市内の他チームのエース級、スラッガーを引き抜いて急遽オールスターチームでのぞむことになって、自分が外された。

なんでもありだった昭和だから、こんなことはどこにでもある話だったんだろうけど、ぼくとしては野球をそれまで頑張ってきてようやくレギュラーになれたのに、大人の事情かなにかわかんないけど「ズルい真似」をしてまで勝つことに意味あんの?という思いになった。当時はそこまで深く考えなかったものの、成長するにしたがってそういった競争みたいなものが苦手になっていった。

ちなみにそのオールスターチームは関東大会の決勝戦で敗退した。

控え選手としてベンチで応援しながら、最終回にチームの敗退が決まる直前から涙がボロボロこぼれてどうしようもなかった。いつも勝って当然のチームだった。試合で負けたことなんてマジでなかった。

でもそのときはじめて「負けるのか」ということを強く実感して、その試合に出られないことが本当に悔しくて仕方がなかった。でも、ぼくが出ていてもきっと負けた。

長い厨二病のはじまり

学校はというと、子供のころ成績が良かった人には共感してもらえると思うんだけど、授業を聞いてるだけでほぼなんの努力もしてないのにクラスのテストは毎回100点満点だった。通信簿もほぼ全教科が「よくできました」。おれ天才なのかな?とわりとマジで思ってた。

加えて少年野球で超ハードな日々を過ごしてたもんだから、スポーツもけっこうなんでもできた。基礎体力が鍛えられてるから、野球以外の球技や陸上競技など、ほかのみんなと比べても運動神経はよかったんだと思う。

小学校6年生のとき、校内マラソン大会があって、ぼくの順位は10位とかだった。学年の男子100人以上とかの中でそれだから悪くないと思うんだけど、なぜか担任の先生に「あなたは手を抜いてる」的なことを言われて、授業中なのに涙が止まらなくなってしまった。

「手を抜いたつもりなんてまったくなかったのに、なんで先生はそんなこと言うんだろう…」

ぼくが泣きすぎて嗚咽も止まらなくなってるのを見て、先生が動揺した表情をしていたのをおぼえている。普段はお調子者キャラのぼくが咽び泣いてるもんだから、クラスのみんなもドン引きしていた。

良くも悪くも他人の目を気にしはじめる

ぼくはその前の5年生のとき、市内の小学校対抗の持久走大会の代表で3位になっていた。ぼくの時代は団塊ジュニア世代ってくらいだから、市内の小学校も10校とかあって、当然生徒数もとんでもなくたくさんいた。そんななかで「市内の代表で持久走大会3位になったあいつが校内のマラソン大会で10位って、手抜きしてない?」と思われたんだと思う。

大きな舞台(市内対抗持久走大会)では頑張るくせに、小さなところ(校内マラソン大会)では本気出さないんだな、こいつなめてんのかな、みたいな。

大人になってからは、まあそういう見方をされることもある、と理解できる。

でも当時の自分は本当に頑張って、必死で走って、その結果10位だったんだ。そしてその結果も受け入れていた。

だって5年生の持久走大会3位なんて、当時は野球で毎日死ぬほど練習してたから足腰が鍛えられまくって運動ができたってだけ。

それが「野球という貯金でつかんだ市内3位」って結果に過ぎないんだけど、その残高を1年足らずで早くも使い切りつつあった。

野球やめて普通に小学生として生活を送ってて、体育の授業のほかに運動もしてないしゲームばっかりやってるんだから、マラソン大会の順位もそりゃあ落ちるだろと。

だけどそれをうまく伝えることができなくて、そんなもどかしい思いとか、実際に運動能力がわかりやすく落ちてしまった自分、という現実を同時に知ってしまったことで感情がぐちゃぐちゃになった。

ほかにももっと楽しかったことや笑える出来事もたくさんあるんだけど、この自分語りのタイミングでこんな何十年も昔の『辛かった話』をわざわざするあたりで、ぼくという人間を察してもらいたい。

ファミコンとラジコンをしてたら青春が終わった

そんなことはあったものの、地元の小学校から中学校に進学。半分くらいは同じ小学校の面々で、ほかは近隣の同じ地域の小学校から合流した子供たち。新学期のはじめはモジモジしてたけど、持ち前のひょうきんキャラが発動してすぐに友だちはできた。

小学校からの友だちを経由して新しい友だちができたり、違うクラスの生徒とも仲良くなったりして、中学1年生の終わりくらいまではいつもゲラゲラ笑ってた気がする。

ただ、ある日にいつも通り友だちにちょっかいを出してからかっていたら、突然キレられて胸ぐらをつかまれてちょっとクラスが騒然となったことがあった。ぼくとしては普段の遊びの感覚で「いじった」だけだったんだけど、友だちはその日は虫の居どころが悪かったのかもしれない。

それからは友だちと険悪になってだんだん疎遠に…ってことはまったくなくて、あいかわらずキャッキャッと戯れてはいたものの、その事件を機にどこかで「人づきあいの難しさ」みたいなものを感じとっていた。

入学時に「夏は涼しそうだから」となめきった動機で入った水泳部も、夏が終わったらすっかりサボるようになり、それから卒業までは帰宅部員と化してファミコンとラジコンに熱中していた。

高校進学のために内申書ってものがあると思うんだけど、当時帰宅部員だったぼくの内申書、「部活動」の欄に「レクリエーション部」と書かれていた。

レクリエーション部?なんだそれ?

たぶん一定数の部活に所属していない生徒のために、受験生向けの内申書に、教師がむりやり架空の部活動「レクリエーション部」なるものをでっち上げてくれたんだと思う。

マイキー
マイキー

先生、その節はありがとうございました!

おかげさまで地元の県立高校に合格しました

人生でもっとも影響を受けた3人

長々と幼少期~思春期までつらつら書いてきてしまった。

現在のマイキーを形成するにいたった根源には、人生で強く影響を受けた3人の存在があって、ぼくは無意識にその3人の影を追い続けていたりする。

その3人とは、それぞれ別なタイミングで、ある一時期に深く交流があったくらいで、いまはまったく疎遠な存在。でも自分にとっては人生の転換期ともいえる大きな出会いだった。

社会人になってはじめて入社した住宅リフォーム会社の5つ年上の先輩、前職の8つ年下の先輩、いま自営業者としての

けど、鬱を克服するために新たな道を模索していたとき、偶然にも「せどり」というビジネスモデルに出会いました。

ジャンク品をリサイクルショップやフリーマーケットで仕入れ、オンラインで販売するこのスタイルは、私にとって新たな挑戦であり、同時に楽しみでもありました。

独立してからは、自分のペースで働くことができるようになり、心身ともに健康を取り戻すことができました。

趣味について

私のブログでは、せどりのノウハウや体験談だけでなく、趣味のキャンプとバイクについても綴っています。

自然の中で過ごすキャンプは心をリフレッシュさせてくれる貴重な時間です。

また、バイクに乗って自由に走ることも大好きです。

風を感じながらのツーリングは、日常生活から解放される特別な瞬間です。

ブログの目的

このブログでは、私の経験や知識をシェアし、同じような境遇の方々に少しでも役立つ情報を提供できればと思っています。

また、趣味や日常生活についても気軽にお話しできる場所にしたいと考えています。

ぜひ、お気軽にコメントやメッセージをいただければ嬉しいです。

一緒に楽しい時間を共有しましょう!今後ともよろしくお願いいたします!

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